今日の聖書朗読には、預言者イザヤと聖パウロ、それに使徒ペトロのそれぞれの召命について書かれています。イザヤは紀元前600年ころの預言者で、当時のイスラエル王アカツは、隣の国々と約束を結ぼうとしていました。イザヤはこれが絶対いけないことだと思いながらも、王を咎める勇気がありませんでした。ある日、イザヤがエルサレムの神殿で祈っていたところ、突然、神の栄光が彼に現れ、天からの声が聞こえます。『誰を遣わすべきか。だれが我々に代わって行くだろうか』これを聞いたイザヤは、『災いだ。わたしは汚れた唇の者だ。主よ、わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』と応えました。第二朗読でパウロは『わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打ちのないものです。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。』と述べ、『月足らずで生まれたようなわたしにも』復活のキリストが現れたと言っています。福音はペトロと最初の仲間たちの召命です。夜通し働いて一匹の魚も獲れなかったペトロたちに、イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言います。するとおびただしい魚が網にかかり、ペトロは恐れおののいて「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言います。それに対してイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言いました。イザヤ、パウロ、ペトロ、三人とも弱い者でした。しかし、主の呼びかけに答えた彼らは清められ、りっぱな証人になりました。わたしたちも小さな弱い者ですが、神の呼びかけに素直に答えるなら、神はわたしたちを使って大きなことができるはずです。
明日2月11日はルルドの聖母の記念日です。1858年にルルドの洞窟に出現された聖母は、少女ベルナデッタに自らを「無原罪の宿り」と名乗り、洞窟のところに聖堂を建てるように司祭に告げ、泉の水で顔を洗い、罪人の改心のために祈るように命じられました。ベルナデッタは純真な少女だったので、言われたことをそのまま教会に伝え、ルルドが今のような年間500万人の巡礼者が訪れる大きな巡礼地になりました。ベルナデッタは修道院に入ってからも仲間のシスターたちから「何もできない人」と思われていました。しかし、いまこの聖人の遺体は腐敗することなくヌベールの修道院に保管されています。神は純真な人を自分の道具に使います。
わたしたち一人一人は神からの招きを受け、何かの使命をもらっています。キリスト者として信仰を証しすることのほかに、子どもは子どもの、親は親としての、祖父母は祖父母としての、また社会人としては社会人の固有の使命を受けています。たいせつなのは、わたしたちは他の誰かを幸せにする召し出しを受けている。ということです。自分が幸せになることしか考えていない人は、いつまでたっても幸せになれません。わたしたちの幸せは、ほかの誰かを幸せにすることの中にあります。イエスは「受けるより与えるほうが幸いである』(使徒20.35)と言いました。わたしたちは幸せの発信源になる大きな使命があります。
先週の日曜日は節分でした。わたしは、ミサの帰りにコンビニで恵方巻きを買いました。コンビニには今年の方角が貼ってありました。わたしは、キリスト信者はやっぱり、エルサレムか、天を仰いで食べるのが一番いいだろうと思いながら、運転しながら食べてしまいました。*(5)
雪の中庭・零下18度
修道院1階(図書室)から撮影(2019.2.9)