今日の福音は先週の続きでナザレの会堂での話です。イエスのナザレの訪問はルカ福音書では、宣教活動の始めになっています。しかし、マタイとマルコの福音書は、ガリラヤでの宣教の終わりの時期になっています。聖書学者は、今日の箇所がマタイとマルコに似ていることから、イエスは二回ナザレを訪問していて、ルカはそれを一つにまとめて書いたと説明しています。初めての訪問の時、ナザレの人々は皆イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚きました。しかし、その後の訪問では、イエスについての先入観や外面的なことがらに目を奪われて、だんだんイエスのうちに働く神のみわざを認めることができなくなっていきました。そして、他所で多くの奇跡を行なったのなら、ここでもやって欲しいという、身内のエゴのような気持ちを出しています。また「この人はヨセフの子ではないか」ということばには、「所詮大工の子ではないか」という見下しの気持ちが入っています。ナザレの人々は、イエスをメシアとしてみることができませんでした。イエスは、自分の助けを必要としている人には、惜しみない愛を示しました。しかし、利己心や自分本位の願いには応えてくれませんでした。イエスが行った奇跡はいつも信仰が前提になっていました。

今日の共同祈願に「わたしたちが、自分本位の思いにとらわれることなく、神のことばに心を開き、主の招きに従って歩んでいくことができますように」という祈りがあります。わたしたちの願いや思いは、自分中心で独りよがりのことが多いと思います。先日、人気アイドルグループ「嵐」の活動休止発表を受けて、神社の名前がリーダーの大野智さんの名字と同じ滋賀県の大野神社に、グループの復活を願うファンが境内に行列ができるほど駆けつけている。というニュースを読みました。この季節は合格祈願に神社に行く人も多いと思います。もしかしたら神社なのに、絵馬に上智や立教、同志社などキリスト教の学校の名前を書いて神社の神様を困らせている人もいると思います。日本人の信仰はおおらかです。

思い違いのことですが、昨日は「主の奉献」の祝日でした。両親が幼子イエスを連れてエルサレムの神殿を訪れた時、霊に導かれたシメオンという人が現れます。そして幼子を抱いて「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます…」とシメオンの賛歌を歌いました。聖書では彼が老人だったとは一言も書いていないのに、わたしは勝手に老人と決めつけていました。そして福音朗読のとき、不謹慎に、「もし彼が、“おしめ”をしていたら“おシメオン”さんだ」と思ったので吹き出してしまいました。

ナザレの人々は、「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」。イエスは崖っぷちに立たされましたが、人々の間を通り抜けて立ち去られました。崖という漢字は山や岸のけわしくそばだったところをさします。崖にさんずい(水)がつくと生涯の涯です。わたしたちの人生の始まりからみぎわ終わりの時まで、身勝手なキリスト者ではなく、神への思いを大切にするキリスト者でいましょう。第二朗読はパウロの愛の賛歌です。愛をわたしに置き換えてみると、自分がどんなキリスト者かどうかが分かってきます。    *(O)