先週の月曜日12月17日は教皇フランシスコの82歳の誕生日でした。この日バチカンで、日本の前田枢機卿が教皇と会見し、その時、教皇が来年の終わりごろ日本に行き、被爆地の広島、長崎に訪問したいとする意向を示されたことが、18日に報道されました。教皇の来日が実現すれば、1981年以来38年ぶりとなります。今日の福音でエリザベトが「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と喜んでいますが、わたしたちも、「教皇さまが日本においでくださるとは、どういうわけでしょう」と喜びましょう。そして前回のヨハネ・パウロ二世の時と同様に、どういうわけで、広島、長崎の被爆地を訪問されたいのかをわたしたちは考えてみなければなりません。

主の降誕祭を目前にした今日の福音は、聖母のエリザベト訪問の箇所です。マリアは、「あなたは神の母となりますよ」と天使に告げられた時、親戚のエリザベトも男の子をみごもっていることを知らされます。マリアはすぐに旅立ち山里のエリザベトのところに向かいました。そのとき既にマリアの胎内にはイエスが宿っていました。渡辺和子シスターは、「わたしたちもイエス様を自分の体の中に受け入れて、人々のもとにすぐに発っていかないといけない」ということを常に考えて生きていたと書いていました。

お告げを受けたあと、マリアは自分の両親に相談したとも、婚約者のヨセフに話したとも、聖書には何も書かれていません。マリアが直ぐにとった行動は、天使が教えてくれた、すでに懐妊して6か月になっていた、親戚のエリザベトを訪問することでした。彼女はお産の手伝いに行ったのではなく、神による懐妊という自分と同じ不思議な体験をしているエリザベトと分かち合うためにエリザベトを訪問したと思われます。「マリアは三ヶ月ほどエリザベトのところに滞在してから自分の家に帰った。」と書かれているので、おそらくエリザベトのお産を見届けてからナザレに帰りました。エリザベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と神を賛美しています。エリサベトの言葉は、マリアをたたえる言葉であると同時に、たぶん自らに対する言い聞かせだったと思います。エリサベトの夫ザカリアは、主の使いの言葉を全面的に信じることができなかったので、口が利けなくなりました。エリザベトにも信じられないことだったはずです。神の計画は人が信じるかどうかで始まるのではありません。マリアは、エリザベトのところに滞在していて、神への賛美、神への感謝、神の計らいについて分かち合っていたと思われます。エリザベトの「あなたは女の中で祝福された方です。」というあいさつに答えてマリアは「わたしの魂は主をあがめ」で始まるマリアの賛歌といわれる歌を残しています。その中で、神が「身分の低いこの主のはしためにも目をとめてくださった」と謙遜に言っていますが、こういった賛美の歌もエリザベトとの分かち合いの中で生まれたものだと思います。今日の福音で、聖母マリアは、神から受けた特別の喜びを分かち合うためにエリザベトを訪問しました。恵み、祝福は自分ひとりに留めておくのではなく分かち会いましょう。わたしたちも、他の人にも喜びを運びましょう。       *(5y)