今日は父の日です。5月の母の日よりも地味なお祝いのようですが、お父さんたちおめでとうございます。以前、何かの本で読みましたが、家庭で父親との関係が良好であった人は、「父である神」をよくイメージすることができるそうです。わがままで身勝手な父親の姿ばかり見て育った人は、神さまに対してよいイメージを持てないそうです。
今日の福音は神の国についてのマルコ福音書の二つのたとえ話です。前半の種がひとりでに大きく育つ話は、マルコ福音書に固有のものです。からし種は、種から油を採るために栽培され、茎と殻は家畜の餌になったそうです。イエスはからし種が地上のどんな種よりも小さいと言っておられます。パレスチナでは一番小さいものを表すのに「からし種のように」という表現がありました。これは日本でも「けし粒ほどの」というのに似ています。
以前にわたしが旭川五条教会にいた頃、長崎の聖母の騎士社から「からし種」をもらってきて植えていた人がいました。その方が、ある信者さんに、種を持って行って植えてみないかと勧めたら、その信者さんは、自分は植物を育てるのが下手なので、「枯らしたね」と言われるのが嫌だからと断っていました。うまい洒落だなと感心したことがあります。
イエスの頃のユダヤ人は、神の国というと、強い「イスラエルの国」と考えていました。イエスは神の国は見える形ではこない、ここにあるあそこにあるといった形で来るのではなく、神の国は心の中に始まると言っておられます。神の国は「ところ」ではなく「こころ」の問題です。神のみ心を行う人のうちに神の国は始まります。でもいくら頑張ってもなかなか神の国は広まらないし、成長が遅く感じられても、誰かが種を蒔いていなければ何も始まりません。種を蒔きさえすれば、あとは神の計らいによって確実に成長していきます。「ひとりでに」と訳されている原語は「オートマチック」という言葉です。
昨日の朝、わたしは神居の納骨堂で納骨の祈りをしました。初めにカトリック聖歌660番「♪神ともにいまして♪」を歌った時、数日前に読んだ相田みつお「しあわせはいつも」という本の、「一病息災 貧乏神同居 しかもかくのごとくなりといえども いのち明朗 いのち満点」という書(文)を思い出し、吹き出しそうになりました。貧乏神同居って言葉がわたしの頭に種まきされていたからです。昨日はその後で幼稚園の運動会に行きました。最後に園児たちが感謝の祈りをして解散になりましたが、お祈りの時、わたしは幼稚園を通して神の国の種が多くの人の心に蒔かれていることを考えました。わたしたちが神の国の種をまこうと力んでみてもなかなか上手くいきません。でも、「愛、喜び、平和、寛容、親切などの(ガラテア5.22~)」霊の結ぶ実を持っている人がいれば、神の国の種は自然とまわりにこぼれていくと思います。
今日の第二朗読でパウロは、わたしたちは体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。と言っています。神の国の種を蒔くことはわたしたちの大事な努めで、主に喜ばれることです。はじめは小さく頼りなくても神が大きく育ててくださるとの確信を持ちましょう。とにかく種が蒔かれないことには何も始まりません。種には揉め事や不和などの悪い種もありますが、わたしたちは神の国の喜ばしい種を蒔いていきましょう