待降節第3主日は伝統的に「喜びの日曜日」として知られています。今日の入祭唱は「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」でした。第1朗読のイザヤの預言では、救いの喜びについて語られ、答唱詩編は新約聖書のマリアの賛歌が歌われ「わたしの心は神の救いに喜びおどる」という言葉が出てきます。第二朗読では「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」というパウロの有名な言葉が朗読されました。
昨日(12/16)の毎日新聞の川柳欄で、わたしは愉快な句をいくつか見つけ、朝から楽しい気分になりました。「はぐれたら頭で捜すお父さん」「はやまるなあの日のわたしに伝えたい」「地下足袋にナイキのロゴを貼って履く」。嬉しい、楽しい気分は自分の周りにも良いものをばらまきます。嬉しくて幸せな人がひとりいれば周りにも伝わり、ひとり暗くて不機嫌な人がいれば周りにも暗い影響を与えます。みなさんの幸せの度合いはいかがですか。
人生は毎日の選びの合計数で決まっていきます。それはその人の人生が、日ごろの生き方、考え方から出来上がっていくからです。ある人は「人」よりも「物」を大事にし、仕事や金儲けを先に考えると、人とのかかわりや家庭などが後回しになります。毎日の小さな選びによってその人の人生の模様が現れてきます。この道にするかあの道にするかの何でもないような小さい選びの中から、大きな隔たりが現れてきます。いつも神さまを心に留める生き方、感謝や祈りのある生き方を心がけてください。
上智大学の学長をしておられたヨゼフ・ピタウ大司教の本に、人間は暮らしが豊かになり、食べる物にも着る物にも困らなくなると、だんだん感謝する心をわすれ、自分一人の力で生活しているように錯覚してしまい、感謝することが少なくなっていく。感謝する心が薄れてしまうと、互いに助け合って生きる社会を実現することが難しくなる。そして、自分さえ良ければいいという利己的な人が増えて社会が殺伐としたものになっていく。だから多くの恵みに感謝し、感謝の心が循環できる社会をつくっていきたい。という文章がありました。以前、「成れば感謝、成らざればもっと感謝」ということばを読んだことがあります。「成れば感謝」これは自分の望みどおりになったのだから神に感謝です。「成らざればもっと感謝」は、神がわたしの願い通りになれば、より不幸になるから聞き入れてくれなかったと考えることだそうです。病気のような自分にとってマイナスなことでも、後から神の計らいだったと、感謝できることがたくさんあります。わたしも自分の病気についてそう思っています。
幸福は感謝の扉から入って、不平の扉から出ていきます。日ごろから感謝と喜びを見つけることを心がけていましょう。喜びも感謝も心の持ち方で決まってきます。
今日の福音の洗礼者ヨハネは自分より後に来るお方がメシアであることを証ししました。わたしたちキリスト信者は、自分の喜びのもとは神であること、自分が幸せなのは神のおかげですと他人に証し出来るたらよいと思います。そのためには不平、不満ではなく喜びと感謝が多い生き方をしてなければなりません。