今日は日本では衆議院総選挙の日ですが、カトリック教会は「世界宣教の日」に定めています。今年の「世界宣教の日」教皇メッセージの中に『教会の宣教は絶え間ない「脱出」の霊性によって力づけられる』という言葉がありました。教会の一人一人が自分の安楽から抜け出し、外に出て福音のすばらしさを伝える使命があります。教会は、内側を向いているのではなく、外に向かって出て行かなければなりません。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた(ヨハネ1.14)。主イエスが肉体をとってこの世に来られたのですから、わたしたちも語る言葉をこの世に受肉させるように出ていかなければなりません。
宣教は教会の本質的な使命です。昨日まで日本中は選挙運動でにぎやかでした。選挙期間中、どの政党も候補者も、人もお金も総動員して走り回ったと思います。教会の宣教は、ポスターや街宣車はありませんが、深くキリストに結ばれた熱意のある人が運動員になることがどうしても必要です。キリストと結ばれている人は祈る人です。イエスは弟子たちを宣教に派遣しました。また人々には、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言っています。わたしたちが、キリストに出会って幸せだと感じているなら、きっと誰かに話たくなると思います。教会はこういった気持ちを持った人によって広がっていきました。
今日の福音は、ファリサイ派の人々がイエスを陥れようとして「皇帝への税金」という問題を持ち込んだ場面です。イエスは彼らの罠を見抜き、それ以上に大切なことに目を向けさせるために、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言いました。わたしたちも、今日のイエスとファリサイ派のやりとりを、自分のこととして考えてみましょう。わたしたちが生きている社会で、社会人として果たすべきことはほぼ果たしていると思います。しかし、神の似姿として、わたしたちが果たすべきことが、きちんと果たされているでしょうか。わたしたちは、何が神のものなのかを見極めておく必要があります。すると、神に返すべきものも見えてくるはずです。この世界のあらゆるものは神からのものですから、わたしたちはそれを大切に使い、神に栄光を帰していかなければなりません。自分のいのち、健康、才能、時間、などは、みな神からいただいたものです。信仰もそうです。すべては神からのものと思わないで、自分のものと思うので心配や不安に襲われます。いのちにしても健康にしても、神がわたしたちに与え、また神が取り上げられます。神からいただいたものにたくさん気づく人は幸せな人です。でも、毎日の生活には感謝できることとそうでないことも起こります。思うようにいかないこと、病気、事故、別れなど、自分にとってつらいことは、神が与え、神が奪う、「神のものは神に」と考えることによって少し平和な気持ちになれると思います。
今日は世界宣教の日です。一人ひとりが福音を伝えることを考えましょう。苦しいことではなく、信仰の喜び、感謝できることをたくさん見つけてください。そうすれば、皆さんの周りに福音は広がっていきます。宣教は皆の努めです。牧者が羊を産むのではなく、羊が羊を産んでいくならこの先の見通しは明るいです。