今日の福音で、弟子たちがイエスを見て、「幽霊だ」とおびえた話があります。幽霊は暑い季節にピッタリの話しです。ここで「幽霊」と訳されている語は、一般に「幻影」などと訳される「ファンタスマ」という語で、「実体のないもの」を表す言葉だそうです。この言葉は英語の「ファンタジー」の語源になっています。これに対して「聖霊」などに使われる「プネウマ」や「プシュケー」は、「目には見えなくても実体のあるもの」(風、息など)を表すようです。聖書では幽霊の存在をはっきり述べていません。しかし、当時のユダヤ人には、「死者の霊が現世に出てくるという現象があり、それは恐ろしいものだ」という概念があったようです。

ここで少し脱線します。日本では、幽霊はこの世に未練や恨みがあって成仏できない死者が、因縁のある人や場所に姿を現すもので、番町皿屋敷のお菊や、四谷怪談のお岩さんなどが有名です。幽霊姿の定番は、死装束をまとった足のない女性です。わたしは以前、幽霊と化け物の違いについて聞いたことがあります。幽霊になるには、閻魔様の審査があり、それに合格しない者はみな化け物にしかなれないそうです。

さて、今日話したいことは二つです。一つは神に対する信頼です。イエスが湖の中で沈みそうになったペトロに「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言っていますが、信仰と訳されているギリシャ語の「ピスティス」という単語は信頼と訳すことが出来ます。「イエスはもっと私のことを信頼しなさい」とペトロに言われたのです。わたしたちは信仰生活をしていますが、やはり浮き沈みというものがあります。信じれば、元気も出てくるし、力も与えられて歩けるようになるのですが、ちょっとしたきっかけで疑いだし、落胆し、沈みそうになってしまいます。信仰はたえず成長していかなければなりません。第1朗読の預言者エリアも、神のことばを伝えたのに迫害を受け、精根尽き果て、自分の死さえも神に願った時、神はエリアをホレブ山に導き、彼に力を与えました。信仰は健康に似ていると思います。気を付けていなければ、損なわれていきます。わたしたちは健康には気を使います。具合が悪ければ、お医者さんに行きます。信仰もほったらかしにしていてはいけません。身体の健康は今だけの事であり、信仰は永遠に続くいのちに関することです。信仰が揺らぐとき、イエスに一緒にいてもらいましょう。おぼれかけたペトロもイエスに捕まえてもらいました。

二つめは祈りのことです。イエスは、群衆を解散させてから、祈るためにひとり山に上りました。イエスはどんなに忙しい時も、祈りの時間を取りました。しっかりした信仰のためには、祈りが不可欠です。祈りが少なくなると、信仰も弱くなります。祈りでたいせつなことは、神の言葉を聴くことです。願いの祈りを唱えるだけでなく、自分を神の前において、神はこのわたしに何を望んでおられるかを、耳を澄まして聴いてください。よい祈りをし、聖書を読み、神との時間を多く取ればそれだけ、信仰も強められ、神の望みにかなった生き方ができると思います。嬉しいから祈る、忙しいから祈る、こんな心がけも大切です。お盆でお客さんか来て、嬉しかったから、忙しかったから、その分祈る時間も大切にしてください。