今日は、復活節第2主日ですが(神のいつくしみの主日)と呼ばれています。神のいつくしみの主日は、教皇ヨハネパウロ2世が2000年から復活節第2主日に、神のいつくしみにたいする特別の信心を行うように望まれて付け加えられた祝日です。救いのわざは神のいつくしみの最高の表現になりますが、今日朗読された福音では、イエスは弟子たちに現れ「平和があるように」「聖霊を受け、人を赦しなさい」といっています。また最初の出現の時にいなかったので、どうしても信じられなかったトマスには自分のわき腹の傷跡を見せて「信じない者ではなく、信じる者になるように」といわれました。トマスは強い疑いの心を抱いていたにもかかわらず、傷跡にふれることなく「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。トマスのこの言葉は、イエスを「神」と言った最初の信仰告白になります。これまで、ペトロがイエスに対して「あなたはいける神の子です」と信仰告白をしていました。でも疑い深く不信仰と思われるトマスが、実は誰よりも一歩進んだ信仰を告白したのです。
弟子たちは、婦人たちからイエスの復活の話を聞いたあとも、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていました。マルコ福音書では「その後、イエスは彼ら十一人が食卓についているところに現れ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった」と書かれています。そのような弟子たちが復活されたイエスと何度か出会い強められ、聖霊降臨後は、勇敢にイエスは救い主・メシアだったと述べ伝えるようになっていきます。
信仰は人を介して伝わっていきます。第一朗読では、エルサレムに誕生したキリスト信者の共同体の様子が書かれています。熱心な人、燃えている人がいれば周りが影響を受けていきます。わたしは先週の4月18日が52回目の洗礼記念日でした。自分は誰の影響で洗礼を受けたのか考えてみました。そうすると、その当時の教会の仲間、そしてなによりもその教会のドイツ人のN神父様の影響が大きいと思いました。お世話になった方々、良い影響を受けた多くの方々はもうこの世にいません。自分もいつかこの世を去ります。誰かがわたしを通して何かを見つけ、キリストとつながっていけたなら嬉しく思います。わたしは高校3年生の時洗礼を受けました。当時、家族から「信者のくせに」と言われるのがとてもいやでした。いまは信者さんから「神父のくせに」と思われているかもしれません。わたしたちは誰もが弱さがあり不完全です。でも、それでも信じたい、ついて行きたい。その気持ちが大切だと思います。頑張ろうとする気力があれば神様は喜んで下さると思います。「あんなんでも信者」、「あんなんでも神父」という開きなおりを見せるのではなく、「信者さんだから」「神父さんだから」と思われるような証をすることが大事だと思います。弱いわたしを強くしてください。最近わたしは、キリスト信者として成長していくために、欠かせないのは、単純ですが祈ることだと感じています。身体のためには栄養剤とかサプリメントに頼る人は多いと思います。わたしたち一人ひとりが元気ならキリストの教会も元気になります。もっと祈って、健康で明るい信者になりましょう。