今日は待降節第2主日です。今日の福音は、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言っている箇所です。先週、わたしは美唄教会の信者さんの葬式に行ってきました。およそ1年ぶりに、前の教会に行ったので、信者さんに会えてとても嬉しかったです。でも、何人かは施設に入居してしまい、また病気が思わしくなくて会えなかった人もいました。この次は誰の葬式で行くことになるのかなと思いましたが、こればかりは順不同で分かりません。でも、誰もが確実に神の前に出る日が近づいています。年末が近づいているので、もう出来るところから大掃除を始めているというキレイ好きな人もいます。キリスト者は、自分が神の前に出る日が近いことを考えて毎日しっかり生活したいものです。

昨日の毎日新聞の風刺マンガに、韓国のパク・クネ大統領が断崖絶壁に立っていて、弾劾裁判がどうなるのか不安な顔をしている絵がありました。つい2ヶ月前までは想像できなかったことだと思います。人はどうなるかわからないものです。

わたしは今日の第2朗読で、パウロが「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧めている言葉がいいなと思いました。最近、相手を思いやる、受け入れて包み込むことが、今の社会には足りなくなってきていると感じることが多くなりました。世界では、国境に壁を築くと暴言をはいていた人が大統領に選ばれ、移民や難民を拒絶し、自分たちの利益を守ると考える人が多くなって来ています。受け入れるより拒絶し排斥することが平気で口に出される社会は恐ろしいです。

教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」のなかで、現代社会を「唯物主義的・消費主義的・個人主義」であると分析し、その中で、真の信仰とは、世を変え、価値を伝え、地上での歩みの後によりよい何かを遺そうと考えるもので、ほかの人に無関心でいるのはよくないと述べています。今週の木曜日は無原罪の聖母の祭日です。聖母はいつも周りに目を配り、人が困るのを黙って見ていられない人でした。聖母のような優しい人、強い人、あたたかい心の人がひとりいれば、その人の周りに喜びや幸せが広がっていきます。

わたしは以前、宮沢賢治とカトリシズムという論文を読んだことがあります。賢治は熱心な仏教徒でしたが、フランス人宣教師とつながりがあり、小さき聖テレジアのことも知っていたようです。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は有名です。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、雪ニモ夏ノアツサニモマケヌ、丈夫ナカラダヲモチ…」と始まり「東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいといい、北に喧嘩や訴訟があればつまらないから止めろといい…みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされずそういうものにわたしはなりたい」と結ばれています(原文はカタカナ)。人の幸せを考えてあげる優しい心を持ちたいものです。

キリスト者にはただの「でくのぼう」ではなく、そこから喜びや幸せが広がっていく発信源になるという使命が与えられていると思います。