今日の福音は祈りについての教えです。弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったとき、イエスは「祈るときには、こう言いなさい」と言って主の祈りを教えてくれました。主の祈りはマタイ福音書とルカ福音書にありますが、教会が公式に使っているものはマタイ福音書のものです。ルカ福音書のほうが短い形です。本来はルカ福音書の祈りが先にあって、それが典礼などで唱えるために少しずつ形が整えられていったと思われています。イエスが「父よ」と祈ったものが、礼拝で使うときにはそれでは短すぎるので「天におられるわたしたちの父よ」と長くなっていったようです。

主の祈りの中には、イエスの生き方の内面的姿とその生き様が表れています。また「こう祈りなさい」という招きを通して、イエスは「主の祈り」に表れているご自身の生き方へと私たちを招いています。主の祈りの構造は、父よ、と呼びかけている前半と、わたしたちに必要なものを願う後半の部分に分けられます。イエスはいつでも父との関係を大切にしていました。わたしたちキリスト者もまず、神との関係、父との関係を大切にし、神との縦の関係がしっかりできて、それから横の関係を伸ばしていくことが大切です。

マザー・テレサが、出会った人々にいつも名刺代わりに「これは私のビジネス・カードです」と冗談を言って配っていたカードに、「静けさの実は、祈りである。祈りの実は、信仰である。信仰の実は、愛である。愛の実は、奉仕である。奉仕の実は、平和である」と書いてあったそうです。マザー・テレサは、奉仕、すなわち愛の実践を導き出す原点は、静けさの中の祈りで、ここからすべてが始まると考えていました。静けさの中で語りかけてくるイエスの “I love You.” という言葉を聞きなさい、とマザーは言っています。

旭川出身の作家、三浦綾子が祈りについて書いた「天の梯子」という本に、わたしたちが神に向かってする祈りの多くが、「苦しい時の神頼み」のような祈りなら、神にとって実に苦々しいことにちがいない。わたしたちが、ふだんおつきあいしていない人に、いきなり相談や頼みごとをしに行けるだろうか。ちょっとそれは難しいのでないか。朝晩顔を合わせてもお辞儀一つしなかった相手に、いきなり深刻な話を持ちこめる筈がない。だから祈りは毎日、朝に夕に、また、随時祈ることが大切である、と書いています。

主の祈りの四番目の祈願は「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」です。時々、「わたしには赦すことのできない人がいるので、この祈りは祈ることができない」という人がいます。でもこれは、自分が人を赦す完全な愛をもてた暁に祈る祈りではなく、自分が真実に愛する者になっていくことへの招きの祈りと考えることができます。

むかし、わたしは、天使祝詞が、「めでたし・・・」だった頃、贔屓の野球チームが負けたりした時、今日はめでたくないから、主の祈りだけすると言っていたことがありました。でも、今は言葉が「アヴェ・マリア」に変わったので、安心して祈ることができています。