明日は、わたしが司祭に叙階されて、40回目の記念日になります。わたしは1976年(昭和51年)に叙階されました。その年にフランシスコ会では9人が叙階され、いま同期で残っている者は4人になりました。神に感謝です。スマートフォンのアプリに記念日や祝日を教えてくれるものがあり、それで調べたら、明日はわたしが司祭として誕生して、生後14,610日になります。今日の福音の最後の言葉は「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」ですが、わたしの場合は自分で司祭職を選んだのではなく、神様が呼んでくださった。そして司祭にしてもらったと感じがしています。
今日は二つの事を話します。ひとつは「いつもより良い方を選んで神に従う」ことです。今日の福音はイエスがご自分の十字架上の死を迎えるエルサレムに向かう途中のベタニアでのはなしです。イエスはもてなしを受けるよりは自分の話しを聞いて欲しいという思いが強かったと思います。マルタはいろいろしなければならないことに忙殺されてイエスの気持ちを理解できなかったようです。わたしたちも過去のことに拘ったり将来のことに不安をいだいたりして思い煩います。しかし大切なのはいまなのです。中世の修道院にはNunc coepi「いま新たに始める」とHic et Nunc「 ここでいま」という標語がありました。6月21日が祝日だった聖アロイジオはいつも「このことは永遠のいのちにとって役立つものであるのか」と自問して行動を始めたそうです。わたしたちにとって「必要なことはただ一つ」なのですから、いつもよりよいほうを選択するように心がけましょう。いまを良く生きなければなりません。
もうひとつは「イエスの言葉をよく聴く」ということです。わたしたちはあまり神のことを考えないで行動を起こします。普段から何度聴いてもすぐ忘れてしまう現実もあります。ですから何度でも神のみ旨、神の望みを聴く必要があります。そのための時間をとりましょう。祈りと神の言葉をよく聴く訓練をしましょう。ミサの中で、神のみ言葉が伝えられている朗読の時は、聖書と典礼を見るのではなく、どうか目を閉じて神の言葉を聴くことに集中してください。目が不自由な人はいつも聴くことを大事にします。わたしたちは見えているから聴くことに集中しようとしません。イエスの望み、神の考えをよく理解していないから自分勝手なことをしてしまいます。長年信者をしてきたから今のままでいいと思わないでください。そう思うと進歩がなくなり、イエスから非難されていたファリサイ派の人たちと同じになります。
今日の拝領祈願に、「マリアのように主の言葉を心に刻み、マルタのように人を温かく迎え入れる者となりますように」ということばがあります。わたしたちが二人の姉妹の両方の良い面をかねそなえれば理想なのですが、とかくイエスの言葉を聴くことが不足していることが多いと思います。
(スペースが空いたので/最近、天皇陛下の生前退位が話題になっています。前ローマ教皇も生前退位でした。だからわたしは、陛下もたいへんだから、皇太子と、交代してもらったらいいと思います。)