今日の聖書朗読に共通して流れているのは、罪の赦しに関することです。第1朗読ではダビデ王がヘト人ウリアの妻を奪う罪を犯した話です。第二朗読は律法を守ることで義とされるかどうかの話です。初代教会で異邦人キリスト者が増えていったときに、ユダヤ教の律法を守るべきだと考えた人々がいて、パウロとの間に対立が起きました。パウロは律法に縛られることで、人は生かされないと考え、霊は生かし、文字(律法)は殺すと考えていました。福音にはその町で知られていた罪深い女性が登場します。イエスを家に招待したファリサイ派の人たちは、罪は律法の行為をおこなえば精算できるものと考えていました。それで彼らは律法を守れない多くの人たちと自分たちは違うと考えていました。「ファリサイ」という言葉は分離するという意味で、自分たちは律法を知らず、守っていない一般民衆から分離した者と考えていました。
わたしは今日の福音で、イエスは足元がもぞもぞして気持ち悪かっただろうと思いました。当時の会食は椅子に座るのではなく、横たわるようにして食事を摂ったので、この女性はイエスの足元に近づくことができたようです。また人を招いて会食をするような場合は、その場所がオープンになり誰でもが自由に出入りできたようです。会食が、今の日本のように、椅子席や小上がり、あるいは座布団に座ってのものだったら、今日の福音の女性の話は成り立ちませんでした。
わたしたちはみな神の前ではほとんど同じ罪びとです。自分の力であるいは自分の行いでその負債を清算できるなどと考えないほうが賢明です。神の憐れみと慈しみによって赦されているのだから、謙遜にならなければなりません。多く赦してもらっているから、多くの愛を実行しなければなりません。近ごろ、舛添東京都知事の公私混同のセコい行いが話題になっています。人の上に立つものはそれなりの品性がなければなりません。人は誰だってみな暗い闇の部分を持っています。彼はもっと謙遜に素直に謝って身を引けばいいのに、自己弁護ばかりしているので見苦しく感じます。最近の新聞の川柳には「弁護士も政治資金で雇いそう」「目ん玉をひんむきたいはこっちぞえ」「「上様」で今夜の飲み会マスゾエる」「第三者逃げ隠れするいい方法」などとありました。
第一朗読のサムエル記で、ダビデ王は近くの女性と関係をもち、子どもができてしまったことで、その女性の夫を殺してしまいます。そのことを預言者ナタンに指摘されます。その指摘に対してダビデは、自分の犯した罪を自覚し、心から回心し、神へと立ち返ります。そのことによって、本来ならば、ダビデに対して死の罰が下るのですが、神からゆるされます。
わたしたちは皆罪人です。今日の福音に出てきた罪深い女性のように自分の罪、いたらなさ、弱さに気づき、イエスのもとに行き、このわたしを救ってくださるように願いましょう。そうすることによって、わたしたちは、救いへの道を歩み始めます。イエスを招待したシモンのように、人を見下す態度だけは避けたいところです。