キリストの聖体は日本では今日祝われますが、ローマでは少し早く、先週木曜日(26日)に祝われました。この日、教皇は、夕方から、聖ヨハネ大聖堂前の広場でミサを司式され、説教で「イエスは自分を裂かれました。イエスはわたしたちのために自らを裂かれたのです。イエスはわたしたちにも、自分を裂いて、他人に与えるようにと言っています」と話し、パンを裂くこと、自分を与えることが、キリストとキリスト者のしるしなので、自分が持っているわずかなものを分け合うことを考えてください。そのことでわたしたちの人生はより実り多いものになります、と話されました。
先週、伊勢志摩サミットがありました。わたしは、日本でのサミットがお金持ちで裕福な仲良しグループの集まりのように感じました。教皇フランシスコは、先週の日曜日の集いで、トルコのイスタンブールで開催された「世界人道サミット」について話し、紛争や、環境危機、極度の貧困などを原因とする悲劇的な人道状況への支援・対策を考えるこの会議が実り多い話し合いになるように祈られました。そしてこの会議にバチカンの国務長官を派遣しています。教会はいつも苦しんでいる人や弱い立場の人々に関心を持っています。
先週、「夕張メロンの初競り2玉300万円の最高値」というニュースがありました。わたしは、ご祝儀相場などの商習慣はよくわかりません。しかし、キリストの聖体はタダなので良かった、とありがたく感じました。もし価格がついて限定何百枚とか、○○記念のご聖体などとなると、誰でもが聖体をいただくことができなくなります。
聖体拝領はキリストと交わることです。キリストがわたしたちの内にきて留まってくれます。聖体拝領と翻訳されているもともとの言葉はコムニオcommunioです。com.はコンパとかカンパニーという言葉に使われていますが、「共に」という意味です。unioはユニオン,一つになること「一致」です、ですから聖体拝領は、共に一つになる交わりなのです。キリストの体をいただいた者はキリストに変えられていきます。そして今度は人にキリストの命を与えるものになっていきます。キリストによってもたらされた救いのしるしと道具、世の光、地の塩となっていきます。
聖体はまた、教会の力の源です。聖性を目指す努力、教会の使命を遂行しようとする活動、司牧計画の実行などの必要な力は聖体からもらいます。聖体のうちにわたしたちはイエスと出会います。今日の福音で、イエスはパンを裂いて弟子たちに渡し群衆に配らせます。聖アンブロジオ司教教会博士は、この箇所を「配られると、みことばは増えるのです。わずかな言葉を語りながら、イエスはすべての人々にあり余るほどの食物を与えられたのでした。イエスはわたしたちに、パンのようにみことばを与えられます。わたしたちがそれを味わうなら、みことばはわたしたちの口の中で増えるのです。同じように、このパンは、目に見える驚くべき方法で、裂かれ、配られ、食べられても、すこしも減ることなく、あり余るほどに増やされるのです。」と解説しています。わたしたちは聖体を拝領できます。聖体は、教会にいのちを与え、教会を築き、すべての秘跡の頂点にくる大切なものです。