今日の第一朗読と福音書に共通するテーマは、召命です。第一朗読では、イザヤが預言者として召 命を受け、福音書では、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが使徒としての召命を受け、それに応えていきました。イザヤもペトロ、ヤコブ、ヨハネも普通の人でした。イザヤは、わたしは汚れた唇の者、自分は罪深い者と言い、ペトロ、ヤコブ、ヨハネも特に学識があったわけではありません。でもイエスと出会い、自分の人生をかけて従って行きました。
ガリラヤ湖の漁師たちは夜中に漁をしたそうです。日中、魚は湖の深いところにいて、夜になると水面近くに上がってきたようです。シモンたちは、夜通し働いて疲れていたのに、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい」と言われて、「お言葉ですから」と従います。彼らは素朴で素直な人たちだったようです。わたしたちなら、「あなたは素人なので黙っていろ」と思い、自分たちのやり方を変えないと思います。
わたしは昨日、自分の召命・司祭職について考えていました。昨日のミサの福音は、イエスが使徒たちと人里離れたところに退き、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた箇所でした。司祭はキリストの司祭職を引き継ぎ、独自の使命を受けています。キリストの道具となり、罪をゆるし、聖体を制定します。牧者の愛に根ざした深い成熟した霊的生活が求められています。祈りの人、神の人にならなければなりません。また、羊の匂いのする牧者でなければなりません。わたしは司祭職に呼ばれて今年で40年になりました。今では、体が不自由になって自由に動き回れません。でも、自分の出来ない事ではなく出来ることを考えて、「こんなわたしですが、お言葉ですから」と従っていきたいと思っています。わたしの出来ることは、たいしたことではありません。でも、まだミサができます。これはいちばん嬉しいことです。立派な話はできません。でも、おもしろいことやバカなことは他の人よりも早く気づきます。あと、ロザリオの祈りなら人に負けないくらい祈っています。ロザリオは昨年亡くなった親しくしていたトラピストの神父さんの影響を受け、わたしも祈るようになりました。 (魚がたくさん獲れた・・ギョ!)
みなさんも、自分の置かれた場で、信徒だからできること、親だからできること、子どもだからできること、自分の出来ることを探してください。自分は貧乏だから、病人だから、高齢者だからと思っても出来ることがあるはずです。今週の木曜日2月11日は、ルルドの聖母の記念日で、世界病者の日です。1858年にルルドの洞窟に出現された聖母は、少女ベルナデッタに自らを「無原罪の宿り」と名乗り、洞窟のところに聖堂を建てるように司祭に告げ、泉の水で顔を洗い、罪人の改心のために祈るように命じられました。ベルナデッタはロザリオしかできないような役たたずの子どもに思われていました。しかし純真な少女だったので、言われたことをそのまま教会に伝え、ルルドが今のような大きな巡礼地になりました。いつも、神の望みに素直な心で従いたいものです。また各自、自分はどのような使命を生きるために召し出されているかを考えてください。今週の水曜日から四旬節が始まります。めぐみ多い四旬節になるよう頑張りましょう。