今日は年間第2主日です。年間第2主日は毎年、イエスの宣教生活の初めの頃を詳しく書いているヨハネ福音書から朗読が選ばれています。今日朗読された箇所は、イエスが弟子たちの前で最初のしるしを行なって栄光を現し、弟子たちが主を信じたという場面です。ヨハネ福音書は、イエスの母と書いてマリアという名前は出ませんが、イエスの公生活の二つの重要な時、すなわちその初め(カナの婚礼)と終わり(十字架)にイエスの母がそこにいたと記しています。わたしはロザリオの祈りで、光の神秘・第二玄義を祈ることが好きです。母はイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げます。人々が楽しく過ごしている時に聖母は不足しているものはないかと気配りをしていました。また、召使たちには「なんでもこの人(イエス)の言うとおりにしなさい」と言っています。聖母がいつもわたしたちを見守り、わたしたちに足りないところを気づかせ、いつでもイエスの言うことに従えるよう導いてほしいと思います。教皇ヨハネ・パウロ二世は「救い主の母」という回勅で、「ヨハネの福音がカナの婚宴の出来事のなかで具体的に描いているのは、霊による新しい母性で、肉による母性ではありません。すなわち、人間というものに対してマリアが抱く心遣いであり、人間のありとあらゆる困窮や欠乏にいちはやく手を打つ母の姿です・・・」と書いています。マリアは母の立場で御子に人々の欠乏を示すことができる権利を持っている方ですとも述べています。「ぶどう酒がなくなりました」というマリアの言葉にイエスは最初、拒絶するような態度を見せますが、結果的にその願いに応えています。ユダヤ人が清めに使った大きな水がめは古い契約のシンボルです。これがぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい新約の時代が始まったことを表しています。イエスの最後の時、十字架の下でマリアは弟子のヨハネに託されます。これはマリアが母として教会共同体に与えられたことを意味しています。マリアは教会の母として、カナの時と同じように、「あの人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とわたしたちに勧めているはずです。昨日・今日と大学入試のセンター試験が行われています。わたしも何人かの知り合いの子どもたちのことが気になります。わたしは、「彼らがトラブルにあうことなく、落ち着いて日頃の力を出せますように」と祈りました。合格を願うことは人間としては当たり前の態度ですが、神がその望みを聞いてくれるかどうかは、わたしたちには全くわからないことです。だからマリアのように、信頼を持って頼み、後はお任せする姿勢が大切です。
わたしは今から50年前に大学受験をしました。洗礼を受けて間もない頃でしたが、合格させてくださいと祈ることは、誰かを落としてくださいと願うことだと思ったので、み旨が行われますように、できればこの大学に合格させてください、と祈りました。でもその大学は不合格になり、その次に受けた大学に合格しました。その大学の近くの教会に通い、そこの教会の図書室にあった小さき聖テレジアの自叙伝を読んで、司祭への召命を感じました。4月に大学に入り、6月にはもう司祭になろうと考えていました。神の計らいは不思議で人の思いをはるかに超えています。神は賛美されますように! です。