今日は降誕節の最後の主日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してからおよそ30年たってからの事ですが、イエスの『神の子としての現れ』という降誕節のテーマが続いていると考えられています。明日からは教会の典礼は年間になり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されます。
イエスの洗礼は、イエスの公生活のスタートでイエスの神の子としてのデビューでした。今日わたしたちは、自分が受けた洗礼の恵みを考えるといいと思います。洗礼を受けてわたしたちは①神の子とされ②聖霊が私たちに来てくださり③神の国に入る資格をあたえられました。洗礼はわたしたちが立派でしっかりしていて条件をクリアできたから受けることが出来たものではなく、まったく神からのめぐみでした。洗礼を受けさせてもらったけれど、そんなにいいことがないし、毎日つらいことが多すぎると不満に思うのではなく、こんなわたしを神の子としてくださったことに、感謝の気持ちを持ちたいものです。そして感謝の気持ちを行ないで表していってほしいのです。
わたしたちはどんなに勉強し、知識があっても、どんなに立派な建物の教会にかよっていても、黙想会にどんな神父さんが来てくれても、愛がなかったらすべてむなしいのです。愛が人を活かし教会を活気あるものにします。愛が人を癒し、元気を与え、教会を作り上げていきます。日本人は恵みに応えるというより、恩を返すという言い方の方がわかりやすいと思います。洗礼で神の子としていただいた恩を、毎日の小さい行ないで返していきましょう。自分のおかれている場で、聖霊を受けている者として、愛を行い、神の愛を証しして、人々に仕えていきましょう。
神のいつくしみを行う人になってください。昨年の12月、教皇はローマのラテランの聖ヨハネ大聖堂の「聖年の扉」を開かれた時、「わたしたちはいつくしみの道具となるように招かれていること、それは洗礼を受けた人の大きな務めであること、キリストにおける信仰は、御父のようにいつくしみ深い者となるための生涯続く歩みである」と 話されました。洗礼によってわたしたちは、父と子と聖霊の三位一体の神との交わりに招き入れられ、神の愛子になりました。わたしたちはこの世から逃げるのではなく、この世にあってこの世のものとならずに生きます。洗礼によってわたしたちは神の家族、キリストの生ける体につながりました。聖徒の交わり、罪のゆるし、体の復活、永遠の命、などのめぐみをいただきました。これは、すごいことです。聖ヴィアンネは、地上の信者の特権について「もしわたしたちが自分たちの幸福をよく理解したら、わたしたちは天国の聖人たちよりも幸福だといっても言い過ぎではありません。天国の聖人たちはその年金で生きているのです。そして、もはや、何一つも儲けることができません。これに反して、わたしたちは一瞬ごとに宝を増やすことができるのです」と言っています。洗礼から生じる義務と共に、受けためぐみ、また、儲かったことを考えましょう。儲けるという漢字は信者と書きます。
主の洗礼(祝日)(ルカ3.15-16,21-22) イエスが洗礼を受け祈っておられると、天が開けた …
山本司祭